そもそも、誰かに見せるというのではなく、もう特に何もすることもなくなった自分の“最後の拠り所”として書き始めたのがこの「終末の記」である。しかし、そうはいっても面白がって読んでもらえると励みになることも確かであるが、今回は原点に還って自分の心情について書き残したことを追加する。特に、記憶に関することは、最大の課題である。物忘れ、認知などは忘れる方で、これは顕著であるが、一方では、古い記憶が懐かしくて忘れられない思い出となる。
忘れること
最初の「終末の記」に書いたように、「もの忘れ」は老人の特技である。自分も、日々進行していることを自覚せざるを得ない。このまま進んだらいまにも認知になるのではないかと心配になって、掛かり付け医に訊ねてみた。「それは全く異なるものです。しかし、物忘れについてはそろそろ検査しましょう」ということになった。進行はしているということである。
ということで、認知と物忘れとの間にどんな差があるのかを知りたくなった。検索情報によると、明確な差があることが分かった。それによると、
- もの忘れには「加齢」によるものと「認知症」が原因となるものがある。
- 前者は、脳の生理的な老化が原因で起こり、その程度は一部のもの忘れであり、ヒントがあれば思い出すことができる。本人に自覚はあるが、進行性はなく、また日常生活に支障をきたさない。
- 後者は、脳の神経細胞の急激な破壊によって起こり、もの忘れは物事全体がすっぽりと抜け落ち、ヒントを与えても思い出すことができない。本人に自覚はないが、進行性であり、日常生活に支障をきたす。
自分の場合は、加齢による「物忘れ」であって、「病気」ではないらしい。また、認知ではその「自覚がない」そうだが、加齢では「自覚がある」ので、その差は大きい。週に一つしか入らない予定がすっかり抜け落ちて、相手に迷惑をかけることがあったりする。昼に何を食べたかは忘れる。まだ食べたこと自体は覚えているので、二度食いまではしていないが、それも時間の問題のようである。
結果として「忘れるという現象」は、川柳で笑って済ませられる段階を越えて、実害や不便が次第に進んでいる。「進行性はなく、日常生活に支障はきたしません」と言ってくれているが、大いに支障をきたしている。このネット情報が正しいとしたら、自分には当てはまらないのか。
思い出を懐かしむ
老化も認知も短期記憶が抜けるのは同じである。しかし、長期記憶は覚えている。認知さんは昔話を何度も繰り返すのが困る。老化の物忘れというのも、同じで先がないので過去ことを思い出すのが仕事である。昔の思い出として、まず手っ取り早く出てくるのは、「懐メロ」である。有難いことに、この頃は YouTube で聴きたい曲が自由に聴ける。音楽そのものより、“往きて帰らぬ”その頃の情景が心に迫って懐かしいのである。下の「コメント」を読むと、曲を聴いて自分と同じ心境になっている老人が多いとわかる。
“夜更けに一人聴いてます。いつの間にか老人と言われる年になりました。これらの曲に癒されてます。ありがとうございます。落涙️。“
同様の反応は、洋の東西を問わない。70年代のジャズをYouTubeで聴いた時に、この種のコメントがたくさん見られた。
“I was 13 years old in 1970. Every song was a story to be told. Even though I am 63 today I can still remember my life back in 1970 and the joy that music added to my life. Thanks for the memories.”
それは日本人の反応とほとんど変わらない。
これらの未知の方に、“あの頃、あの時代の懐かしい思い出話をしませんか”と、連絡したい気になる。「いつかそのうちに…」はないから、切実である。