「終末の記」 ~末期(まつご)にあたって~

終末期を書いてきたが、老人の心得の最後は、いずれ来る「終焉」つまり息を引き取る「まつご」のことである。わが身にも間近に迫って覚悟ができている積もりであったが、いざその時を想像すると、本当に覚悟があるか心許ない。

その不安の中身は大きく、「体の苦痛」と「心の苦痛(恐怖心)」だろう。これにどう備えたらいいかについては、たくさんの書物があるが、そのいくつかを参考にして、あとは“一を聞いて十を知る”という根拠のない自信を元に書いてみる。

体の苦しみ

命の最後の場面で身体がどんな苦しみを経験するのかというのは、死を間近に迎えた者としては大いに気になる。親族の死に目に出会っていない不孝者なので実見分もない。終末を扱う専門医によると、これは素人が想像しているのとはだいぶ違っているという。ドラマなどでは家族・友人に囲まれて、手を握って涙を零して最後の別れをする場面がある。現実はそれとは大いに違っているということを、その看取り専門医がいっている。それによるともっと暗くて辛いのが末期だそうである。

「まつご」に近づくと、次の7段階を経て死に至るという。

  • 「意識のレベルが低下」して反応がなくなるので、そうなる前に意思を聞くとか、こちらの言葉を伝える必要がある。
  • 死期がくると、「身の置き所がない状態で」苦悶の表情を浮かべ態勢も変えたがる。
  • 「見当識障害」つまり時間、場所、人など外界のことについて、譫妄状態になり、お迎え体験をしたり、悪夢を見るようになる。これを元に戻すことは無理である。
  • 「呼吸困難になり」息が早くなる。そして、顎をあげてゆっくりした呼吸が始まると終焉が近い。
  • 「立ち居振る舞い」が困難で、「呻吟状態になり」、「感覚の低下」(視力、聴覚の衰えが進むので、会話も近くに寄る必要がある。)

このようないわゆる、「断末魔」状態を経て死んでいくと言っている。

末期(マツゴ)を迎えるとき、当人はすでに相当前から意識が混濁して感覚も遠のいているので、周りが見るほどには苦しみを感じていないということである。しかし、この末期の様子を周囲が見たくなければ、「緩和」「鎮静」があるのだそうである。それなしには当人はともかく、看取り人の方が耐えられないという。しかし、そんな話は他ではあまり聞いたことが無いので、この終末医はかなり大げさに言っているのではないかという気がするが…。

話半分にしてもここからの教訓は、遺言などをするなら、この末期が起きる前でなければ、法的にはともかく実質的にできないだろうということであろうか。

心の苦しみ

これはいわゆる「死の恐怖」である。誰もが子供のころから、”死んだらどうなるのか“という不安を抱いたことがあるのでは…。この世界から自分だけが居なくなるという事態は想像できない。いずれはそうなることは確実だとしても、それは先のことだとして考えないことにしている。

“若くとも 末は長いと 思うなよ 無常の風は 時を選ばず”

と、お大師さまのご詠歌で聴かされたが、なかなか実感は湧かない。終末期を自認している自分も、まだこの期に及んでそれは先だということにしている。

では昔の賢人はどう言っているだろうか。「中村天風哲学」を信じることで、死の恐れを耐えることができたという旧友の意見を聞いてそれを読んでみた。その哲学なるものに感心した点は、「誰もが毎晩眠りに就くが、その間に自分は、“今眠っているんだな”と意識しているわけではない。そのまま目が覚めなくても何も変わらない。つまり、我々は毎晩、死んだ状態の予行演習をしているとも言える。」と述べている。成程うまい喩えで、この考え方なら、死んだら認識が無の状態になるということが実感できる。要するに死とは、就寝の延長線上にある “long sleep” 状態と理解すればいいということですね。皆さんはこの話に納得できますか?

「死」について論じたシェリー・ケーガンの、「死とは何か」という大部の哲学書が手元にある。これは「死と生」に関して、イェール大学で23年間連続でなされた人気講義だろうそうである。これを正面から取り上げるのは門外漢にはハードであるが、行きがかり上避けるわけにはいかないだろう。しかしかなりの時間がかかりそうなので、次号は何時になるか不明です。どうかご容赦を…。