内藤正明
生産性という言葉の定義
「LGBTには生産性がない」と国会が議論になってから、この言葉がいろいろと議論の的になった。人の生産性というのは何を指しているのか。その議員も単純に受けを狙っただけでて、それほど深い意味を考えていったようには思えない。もし、深く考えていたら、そのような発言はできなかったのではないか。生産性という場合、“何かを生産する”対象があって、それを生産する効率が良いとか悪いということを言っている。
では、そもそも人間にとっての生産性とは何か? 人は何を生産するために生きているのだろうか。 企業で働く労働者であれば、「労働生産性」であるのは分かり易い。しかし、人の価値を単に「労働生産性」だけで評価していいのか、と問えば、その議員もそんなことは言っていないと言うだろうか。では、どんな価値があるのだろうか?
国会で議論になった“LGBTのような性的マイノリティに対して、生産性がない”と言って批判した議員は、子孫を残せないからといっているので、「生殖の生産性」を言っている。つまり、生産性がない、という言葉で排除しようとする人たちは、次の二つ;
① 社会活でのモノ・サービスの「労働生産性」、
② 動物としての命の「生殖生産性」
の二つをその時によって使っている。自分でも区別をしていないのではないか。しかし、この二つについてそれぞれに議論しておくべき多くの課題がある。
生きることの意味と社会的価値
命が持続しなければ、生き物に関するすべての議論は無意味であるから、命を伝えることが生物にとって不可欠な営みであることは言うまでもない。だからといって、生殖しない、または出来ない生き物が、それだけで存在する価値がないと決めつけるのは、考えが浅いというべきだろう。
沢山の子孫を残すことで種の保存をはかるのは、イワシのような弱い生き物の生存戦略である。これは単に種の生存が目的になっている。人間にとっても子孫を残すことは生き物として大事であるが、それ以上に、社会的生物として、自らが生きている間に「社会に役立つこと」がもっと大事な価値である。だから、LGBTの人が子孫を残さないとしても、自分が生きている間に社会に役立つことで、その存在価値は認められて当然である。なお、その“社会への貢献”は、国や企業などの組織への献身ではなく、自分たちの仲間と幸せ社会づくりへの貢献がこれからは大事であることを後に定義する。
なお、LGBTの人が、直接子孫を残さなくても、当人が社会に貢献する優れた才能の持ち主である例がいくらも見られる。例えば、ある国の首相がLGBTであることをカミングアウトしているが、優れた政治家として活躍している。台湾出身のオードリー・タン氏はアメリカでも超秀才として知られていて、コロナ政策の責任者として台湾に呼び戻されて優れた政策を実施した。また、日本でも何人ものタレントが社会的評価を得て活躍している。まだ統計的にLGBTが特に優れているかどうかは証拠付けるデータを持ってはいないが、少なくとも「生産性がない」というデータもない。その優れた才能が証明されたとして、その遺伝子を残さないことは残念ではあるが…。
これとは逆に、アメリカに移民してきたある夫婦が、生産性に優れていて、沢山子孫を残したが、彼らすべてが凶悪犯罪者となって、アメリカ社会に莫大な(負の)貢献をしたというという知られた例がある。これは、「生殖生産性」が高いことが社会にとって望ましいといえない好例である。
労働生産性について
「労働生産性」についても、多くの議論が必要である。「生産性」という場合、ある組織の目的があって、それにどれほど適しているかという評価基準で測られる。産業界で働く労働者にとっては、まさに「労働生産性」がその指標となる。さらに分かり易いのは軍隊であり、その生産性は、どれだけ敵を倒す力があるかという「戦闘能力」である。このように組織自体に明確な目的がある場合、その組織を「機能体」と定義(市川淳信)すると、そこには「生産性」が明確に存在する。ところで、国というのは目的を持った機能体なのか?
富国強兵を目指した戦前は、国民全てがその目的を共有して、それに向かって邁進した。その時代はは、兵役に適しているかどうかで国民は「甲、乙、丙」と選別された。ドイツではナチによって、人種による選別がされアーリア人を上位として、他民族の浄化という暴挙さえなされた。
戦後の我が国では、軍事立国は目指さないことになったが、産業界は終戦直後にすぐ再軍備計画を国に提出している。当時それは無理があり実現しなかったが、国を戦争に駆り立てることが、産業界にとって利益であることを証明した。現政権の目指す国の姿が、産業軍事強国であるなら、生産性を国民に期待するのは当然であり、その中身は労働戦士としてのそれであろう。
誰もが尊重される社会
国がそのような、ある目的に向かって発展することを目指す「機能体」である限り、その目的にそぐわない人(多くの場合、老人や障害を持つ)は価値が低く、生産性が低いことになり、排除や時には抹消の対象にさえなる。
では、労働弱者も含めて、「誰もが尊重される社会」になるためには、どうあればいいのか。それは、国自身が「共同体」になることである。そこでは、国というのは“構成員である国民の倖せをはかる”ことが組織目標になり、国自身が「産業強国を目指す」といった目標は持たない。
問題があるとすれば、誰もが(そこそこ)幸せに暮らせる国が本当に世界の中で可能なのかである。後述のように、これはある種のユートピア世界で、この厳しい国際競争社会の中で成り立っていくのか、という批判もあるだろう。それに対する反論は容易ではない。消極的な反論は、もしそれをありえないと非難するなら、これまでの通り、国同士で生産力や軍事力を高めて、競争の中で豊かさを勝ち取っていくしかないだろう。そしてその帰結が、いまの社会、環境、経済すべてにおける危機的な状況である。人類持続を危機にしても競争は止められないのなら、もはや取るべき手段はない。
誰もが役割のある幸せ社会をどう創るか
弱者排除で作り上げてきた現在の社会は、もはや持続が不可能で、自然界の摂理の中で消滅するしかない運命であることが、最近の地球危機が示している。だから、その実現に向けて、無理にでも努力することである。これは単に“倫理の規範”を越えて、“自然の摂理”に適合するにはそれしかないということである。すでに地球危機やコロナ危機は、そのことを示している。偶々、「資本論」がいま改めて多くの人々に見直されている時代背景は、いまの強欲資本主義の限界がようやく認識され始めたことを示唆しているだろう。
それでも、多くの障害が立ちはだかるだろうが、夢というのはそれを追求し続ける過程に意味がある。たとえその夢が難かしくても、国家目標のための手足となり搾取されながら生かされているよりも、自らの夢が選べる方がいいと思って、多くの国で、いま市民が命の危険を顧みず戦っているのであろう。
残念ながら日本人は、国というのは上から国家目的が降りてきて、それを戴いてそれに向けて団結して邁進するというところに喜びを見出す歴史と文化を持っている。だから、個々人が自ら決定権をもって自分の生き方を選び取るという、真の民主主義は望まないという意見(今野 敏)もある。筆者も概ね同意見であるが、人類持続の危機に直面し、その危機を共有するコミュニテーが「救命ボート」をつくろうと、筆者は呼びかけている。
それは皆で組織の目標を持って頑張るという意味では「機能体」であるが、目指すのは「皆が幸せになる社会」(共同体)なので、日本人のメンタルにも適しているとはいえないだろうか? このような社会づくりは世界各地で試みられてきた。救命ボートづくりの先輩は各地にあるので心強い。
救命ボートづくりの障害
国の眼をうまく潜り抜けて、小さい救命ボートを創って生き延びようという地方の試みは、自分たちの意志と与えられた環境次第で何とか実現するかもしれない。しかし、一つ大きな困難は、国を超えた国際的な関係からくる課題である。
例えば、いま緊張が高まりつつある米中関係である。それがさらに進んだ時、日本はその狭間でどう生きるのかという厳しい国際政治の現実がある。そのような時に、田舎で救命ボートをのんびり創って、ささやかにでも皆で生きていこうという活動は、「ユートピアンドリーム」とか「お花畑ドリーム」と言って、国際的なパワーポリテイックスの現実論者からは切り捨てられるだろう。
社会的弱者の倖せを願ってささやかな活動をするNPOにとって、このような難問に向き合う知恵も力もありようがないし、救命ボートは嵐の海で翻弄される木の葉に等しいが、箱舟は何とか生き延びた。諦念の心構えも含めて、どう考えておくか、皆さんの意見をお聴きしたい。
撮影:N.H