最近友人が、昔聞いた「ある僧侶の説話」というのを思い出して、聴かせてくれた。
明治の初期に、ある僧侶が村々を訪ねて聞かせた説話だそうである。その要点は、
人はこの世に生まれた以上、父母とは切っても切れない宿命である。
無事、子供が生まれると、父と母は宝物を授かったような喜びを得る。生まれた子は、母の乳を食物とし、母の情愛を生命と思う。母は自分の食べるのも我慢し、「寒い!」と言えば、自分の着るものを子に着せてやる…。
我が子が成人し、結婚すると、親子の関係は次第に疎遠になり、夫婦は自分たちの生活が中心になる。一方、年老いた父母は、気力が衰え、「子供を頼りにしたい」と思い始めるが、子は親を「お荷物だ」と感じ始める。親は「我が子の身代わりになっても子を護らなければ…」と願う。しかし、子は受けた恩などすっかり忘れ、文句ばかり言う。
というのがその説話の要点である!
そこで、締めとしての友人の言葉は、「このことから思うのは、いつの時代になっても「親子の関係は変らない!」ということです。親はいつの時代でも「子供の犠牲」になり、子供は「自分の家族の養育に明け暮れる!」・・・の循環です。というものであった。
私はこの話を聞いてかなり違和感を覚えた。
当家でも、孫が生まれた時に、婆さんが「外孫の世話をこちらにばかり任せて…」と文句を言ったことがある。その時、「こんなに可愛い盛りの孫を任せてもらえて文句を言ったら罰が当たる。もしいま引き取りましょうと言われたら喜んで返すか?」と言ったものである。
甘えてもらえる、迷惑を掛けてもらえるのが親の幸せというものではないのか。将来のお返しなど、してくれたら有難いが、その時点では思いもしていない。それはなくても子供のときに与えてくれた喜びで十分元が取れているのではないか。
自分のことを振り返っても、子供の頃は世話されっぱなし迷惑の掛けっぱなしで、親孝行などという気持ちは皆無であった。一度だけ、バイトで稼いだ僅かな小遣いをやったことがあるが、それを手も付けず私のために通帳に残しておいてくれた。遺品の中にそれを見つけた時には流石に涙が出た。今頃になって位牌を見て、あの時にもう少しでも何かしてやっていれば、どんなに喜んだだろうと思うこの頃であるが。諺どおり「孝行をしたい時には親はなし…」である。でも、順送りでいいという意見に従って、せめて子と孫に“無償の世話”をしようとしている。
ものは考え方次第…。坊さんはそういうことを教えてやるのが仕事では…?
そもそも、苦労を十分覚悟し、それでもと意識して子供を産んだのではなく、ほとんどが「できちやった子」なのではないか。自分を犠牲にして子を護るのも、一図に子を成すのも遺伝子の特性であって、高邁な意識の問題ではない。